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2014年07月02日

【コラム】荒れる「日本代表敗退」から考える医療と患者の関係性

※写真はイメージです

※写真はイメージです

 先日、仕事帰りに地元のスポーツ観戦好きの友人に会いました。当然、会話の冒頭出てきたのが、「日本代表のワールドカップ一次リーグ敗退」。マスコミやネットが批判で荒れる中、友人が話題にしたのは、マスコミやネットの反応で、このことを問題視していました。

 ちょうど、友人の主張と近い記事がありました。

【山本一郎コラム】サッカーファンのお前ら、ベイスやヤクルト、アストロズ見て落ち着けよ

 要するに、「勝って当たり前、負けたら謝罪しろ」とやるのではなくて、「負けて当たり前、勝って狂喜乱舞」が精神衛生上いいですよ、というお話です。わたしは特にサッカーには興味ないのですが、友人の話を聞いていて、「確かにそうだな、自分も気を付けよう」と思いました。

 この話を聞いて自分のことと照らし合わせて思いをめぐらせたのが、医療の世界の話です。

もし手術が失敗していたら…

 先日、母が脊髄神経の手術を受けたのですが、術前に医師から「また歩けるようになる可能性は6割」と説明を受けました。幸い、今では回復してなんとか歩けるようになったので、母がお世話になった病院や医師には本当に感謝していますが、正直な所、術前に考えていたことは「高いお金払っているんだから、また歩けるようにしてもらえないと困る」でした。

 医療現場の疲弊の一つに、こうした術前のわたしのような考えを持つ人の「医療への無理解」があり、こうした無理解の積み重ねが、「医療崩壊」「財政破綻」などのキーワードにつながっていくのだろうなと、今なら思えます。ただ、きっと、歩けるようにならなかったら、こんなことは考えなかったと思いますが…。

 要するに、問題のすべてを病院や医師に丸投げし、万能の神として崇め、万能ではないと分かったら、クレームの嵐、謝罪要求、となるわけです。今回の日本代表敗退も、「一次リーグは絶対に突破する!」という神への崇拝のような根拠のない最初に期待があり、それが裏切られると、クレームの嵐、謝罪要求と、同じような流れなのではないでしょうか。

議論できない問題

 日本代表は、あくまで日本の「代表」であり、病院や医師もわたしの母の生活を取り戻すためのチームの「代表」なわけで、責任や役割をすべて担う都合のいいスーパーマンではありません。代表を支え、ともに目的に向かっているのは、日本の国民であり、患者家族なのですから、結果ではなく、プロセスについて当事者意識を持って見守り、もし結果が良いものであったら狂喜乱舞する、こういう姿勢が、本当は必要なのですよね、たぶん。

 ただ繰り返しになりますが、こんなことをわたしが考えているのは、母が歩けるようになったからで、歩けなかったら、きっと違うことを考えていたと思います。たぶん、日本代表敗退に対しても、友人や冒頭のコラムの筆者のような、熱狂的なサッカーファンではないから冷静に受け止められるのでしょう。

 医療には母の事例のような「歩けるようになる否か」よりもクリティカルな「死ぬか生きるか」のような重大な問題もあり、安易にスポーツの話と同レベルでは語れない部分があることは重々承知しております。そのことを承知の上で個人的な医療の実体験と今回の日本代表の件を自身の頭の中で思いめぐらし、感情の問題や理性的になるのが難しい問題に関しては、議論したり、自分とは違う意見に理解を示してもらったりすることが難しいのが実情だろうと、改めて感じました。(島田)